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Milan’s commentary
01 zara
アルバム[MILAN]の一曲目を飾るのは[zara]。オープニングに相応しい、「何か」を予感させる楽曲である。その「何か」が、例えば神秘性であったり宗教的なものであったりして、定かではないが都市ミラノからはみ出した、どことなくヨーロッパを意識したサウンドに仕上がっていると思う。けして多くはない音数があれほど重層的に響くのは、音そのものの質感や強弱に関係しているのだろう。最初にどこか歪んだ印象を受け、その後延々と続くリズムがそれらを矯正・収束していく様子が伺える。「音響」というジャンルが一人歩きしている昨今、その「音響」からあえて遠ざかろうとする姿勢の一端を覗かせる興味深い楽曲でもある。同時に作者自身の音楽的ルーツの一つに「映画音楽」の要素が含まれていることは、この楽曲からも推測できるだろう。インスタレーションと映画、この二つのカテゴリーに存在する音楽としての決定的な「差異」が、アルバム全体から、そして一曲目である[zara]からひしひしと伝わってくる。まずはその感覚を味わってほしい。
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02 lodi tibb
「・・・ミラノ・リテーナ空港のロビー。観光客と地元の人間が入り乱れている。ヨーロピアンがほとんどで、アメリカ人はちらほら。アジア圏の人間は見当たらない。1人のビジネスマン風の男がソファーに腰を下ろす。おもむろに胸ポケットからi-podを取り出す。イヤホンを装着し、音楽を再生する ・・・ここで楽曲[lodi
tibb]が始まる・・・ 男の後ろにはガラス一面が広がる。着陸、離陸を繰り返す飛行機の群れ。空港の日常的な景色が続く ・・・ ある瞬間、一機の飛行機から煙が出る。その様子を眺めるロビーの人々。飛行機はゆっくりと時間をかけ爆発していく。驚きと落胆、そして恐怖をはらんだ空気がロビーを包み込む。しかし、その様子に背を向け、うつむきながら音楽に集中している男。慌しさとは無縁であり、無表情のままでいる。大音量で聴いているのかもしれない。あるいは何も聴こえないのかもしれない ・・・ 男の横に現れた老紳士がボストンバッグを置いてすぐさま立ち去る。そのバッグを手にし、老紳士とは逆方向へ消えていく男 ・・・ ここで音楽も終わる」
アルバム[MILAN]のプロモーションとしてPVを制作することになったとき、最初に企画したのが上記のような映像であった。もちろん企画段階の最初期にボツになったし、企画を練る作業の時にすでに現実味がないことも承知していた。あらゆることがそうであるように、モノ作りには予算が付きもの。これではいくらあっても足りない。
全曲解説の場で取り上げる話ではないが、私が受けた[lodi tibb]の印象とは結局こういうことなのだ。楽曲の長さが作用しているのか、曲調なのか、どちらにしても「映像」をよび起す一曲である。イメージとは恐いもので、未だにこの曲を聴くとその映像の断片が浮かんでしまう。しかし、それこそがまさに楽曲のもつ力だと思う。
音そのものに関しては「ミニマルミュージック」の影響下のもと、一歩退いたカタチでの「ロック」で形成されている。共感できる部分の最果てに浮遊するNOISEが何かを象徴しているような気がしないでもない。むしろそれらから与えられる印象が「ロック」という普遍性を醸し出している、と思う。しかしながら同時に「ミニマル」という概念のもつ通俗性からはほど遠く、たえず居心地の悪い思いをする特異な楽曲といえよう。
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03 p.ta.genova fs アルバム[Milan]における、もっとも[dance
music]としての側面を持ち合わせた異色の一曲である。聴き手の意識下に拡がる「踊る」ことを前提とした[dance music]や、いまだに繰り返される大量生産大量消費(消費のほうは定かではないが)の対象としての[dance
music]など、あらゆる固定概念から乖離することで到達できた、『聴くための[dance music]』といえるだろう。主軸のメロディーはあくまでもダンサブルなのだが、楽曲全体の構造はいささか複雑に構成されている。上部構造ではいくつもの音の層が編みこまれ、下部構造ではnoiseが思い思いに拡散していく。また、聴きなれないビートが「硬質」であるにもかかわらず、感得できる疾走感はいたって「軟らかい」。上記のような二つの差異が意識的に融合することで、アルバム[Milan]の根底に流れている「エレクトロニカ(あるいはエレクトロニカ的な音源)」と交差し続ける楽曲である。
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04 morino dorino いつも思うことだが、こういう曲を[Flat
music]と言うのではないだろうか。flatな状態を維持し続けることを課せられた楽曲。minimalとも違う、あくまでもflat。
[Milan]を頭から通して聴いたとき、ちょうど中央に位置するこの曲の存在をたまに忘れてしまうことがある。「忘れる」というと、どことなく消極的な(悲観的な)ニュアンスをはらんでいるかのように感じられるが、それは大いなる誤解である。このアルバムにはどうしても必要な音楽的「空間」があり、その「空間」を奏でるにはどうしても透明でかつ均一な旋律が必要なのである。そこに必要なものが例えば何らかの[noise]だとしたら、アルバム[Milan]のもつ世界観が狂ってくるだろう。あるいは4分弱の[無音]だとしたらどうだろうか。おそらく現代音楽への下手なアプローチと解釈されるに違いない。要するに、この場所に必要なのは[morino
dorino]が持ち合わせているような、均一な平衡感覚に他ならないのである。私個人としては少し長めのインターリュードのような役割と勝手に解釈していたが、この解説にあたり繰り返し聴いていくと、けっこう危ういバランスで構成されていることがわかった。その危うさとflatな感覚が表裏一体で表現されていることが不思議である。
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05 cordusio アルバム[Milan]をめぐる『観光』というコンセプトを体現するにふさわいしい一曲。他の収録曲がもつ前衛性や現代性からは距離をおき、ひとつの『都市論』として成立している。ベースにある[VOICE≒SOUND≒NOISE]という円環をイメージさせる図式が、そのまま都市Milanの『交通』とシンクロし、さらにミニマムな状況下における生活者へとスライドされる。同時に、コンセプトの一つである『メトロポリタン(交通)』へと重なっていく。
楽曲の構成に関しては、既存のダンスミュージックとの距離と[Milan]全体のクリティカルなアプローチからの距離、この二つの『距離』をどこまで有機的に表現することが可能か、という一つのテーマを掲げた実験性を秘めたものになっている。言うならば、アルバム後半に設けられた、『音響』に対する彼独自の回答の現れではないだろうか。
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06 famagosta
『いまにも日が暮れそうな海辺。その波打ち際をさまよう小型のタイムカプセル。いつまでも居場所を見つけることができない。漂うことだけを許された海月のように』
いつの時代もイメージがすべてではないが、ある瞬間に浮かび上がってくるヴィジョンを無視して音楽を楽しむほどの無神経はよくない、と私は思う。私にとっての[famagosta]のイメージとは、完全なる「メランコリー」の世界であった。それはセンチメンタルとも、アンニュイとも違う。感情のさらに内部に隠されている「陰」の表層のようなものである。こして文章にするとネガティブな印象を与えるが、実際の音はそれほどヘビーなものではない。叙情的な要素の詰まった美しいメロディーの構築といったところ。後ろに拡がるnoiseがアクセントになり、何かかけがえの無いものを救っているようで不思議だ。
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07 amendola fiera アルバム[Milan]の最終曲である[amendola
fiera]は、クラシカルな意味での現代音楽にもっとも接近した(あるいは接触した)一曲である。おそらく塚原氏自身の音楽的原風景のすべてを表現の基盤にすることで、他の収録曲ではけして感じることのできない壮大さを表現することに成功している。その一つの要因としてピアノがある。そこから奏でられる音そのものの温度を体感することで、一層世界観は広がりを見せる。情報量の多さから、10分未満で抑えることを危惧していた私であったが、完成された楽曲に不安要素はなく、むしろアカデミックな貫禄さえうかがえる。
そして、もうひとつの要因としてnoiseがある。延々と背景に流れているきめ細かい音響の断片が、都市Milanのもつ独特な「野蛮さ」へとシンクロしていく。ある日のヨーロッパの衰退を、また甘美なルネッサンス文化であり哲学を、いかに音楽的表現に内在させることが可能か。重い課題に取り組むことで完成した楽曲であり、同時にアルバム[Milan]をめぐる一連の観光の終わりに相応しい楽曲でもある。
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